失恋論に寄せて [わたしの意見]
今朝、パソコンで「おとなの小論文教室。」を見てみると、
なんだか見覚えのある、というか私の書いたおたよりメールが掲載されていた。
「おとなの小論文教室。」とは山田ズーニーさんが、
ほぼ日刊イトイ新聞内で執筆しているウェブコラム連載のひとつであり、
このページでは毎週、書くこと、表現すること、考えることなどの様々な題材をもとにズーニーさんと読者の人たちがさまざまな意見や考え方を深めている。
同時にここでは毎回、読者から感想や意見をメールで募集しており、
その時々のテーマについて寄せられた読者のメールを紹介しながら展開していくことも多い。
現在、おとなの小論文教室では「Lesson521 失恋論 4.失恋は可能性」というテーマで、
ここに私の書いた「なおやさん」によるおたよりが紹介されている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「失恋論」というテーマが始まったのは12月1日、私は夜にこれを読んで初めてメールを送信していた。ズーニーさんの失恋論に思うところがあったので、いきおい、自分なりの意見を書いていた。
そのときは私は少し浮かれ気味だった。
中島みゆきツアー2010でみゆきさんご本人に、自分の書いたおたよりが読まれた日から日も浅く、
それなりに舞い上がっていた、と思う。
そして翌週の更新日の12月8日、もしかしたら自分のおたよりが紹介されているかを気にしつつ、
第2回の失恋論に目を通したが、私の書いたおたよりの紹介などなく、
色んな読者の方の意見を読んで、自分の寄せた内容は今回のテーマとはズレていたな、と思って、
いつも通りページを読んでいた。
そして今朝、自分が失恋論におたよりメールを出していたことなど、すっかり忘れていたので、
失恋論の第4回のタイミングで、自分のおたよりが紹介されたことにちょっと驚いていた。
みゆきさんに読まれた時のペンネーム、ほぼ実名「青木なおや」で投稿していたが、
ズーニーさんは苗字を伏せてくださっていた。ここでは特に伏せない。
投稿した内容は、頭の簡単な挨拶文を除く、ほぼ「全文」そのままを使ってくださり、
メール送信時にやらかした脱字も、きちんと埋めて掲載していただいていた。
また、ズーニーさんは私の投稿文章に<自分の理想を支える土台を持つ生き方>という、
見出しタイトルを付けてくださった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これで、本当にもう過去の失敗に、捉われる必要はない、と私自身がきちんと認めてあげようと思う。
ここまで具体的に示してもらっているのだ。
私の過去3年間は失恋論に寄せた文章に凝縮できている。
だからこそ、ズーニーさんのこころに引っ掛かるものもあったのだろうと思う。
そのときの自分の枠組みの限界まで来たからこその失恋。
ぶちあたった自分の壁の感触と痛み。それを私はもう知っている。
ズーニーさんの「失恋論 4」では、「次」という言葉をたくさん見つけられる。
私にとっての「次」とは何なのか、今あるところの「次」は何なのか。
私が投稿した文で使った「理想」という言葉は一体何を示したものなのか。
去年、私の手相を見てくださった柳沢さんは、こう言ってくださっていた。
”あなたは失敗しても何かを掴み取って、立ち直れる人だから”と。
ものごとに「終わり」というのは、存在しない。
「区切り」こそあれど、本質的に終わりなどどこにもない。
終わりの無いことを絶望的と捉えるか、無限の可能性と捉えるか、選ぶ自由がある。
空に途切れている場所はどこにも無い。
すべてを包むようなひとつながりの世界が、そこにはある。
おめもじでした。
なんだか見覚えのある、というか私の書いたおたよりメールが掲載されていた。
「おとなの小論文教室。」とは山田ズーニーさんが、
ほぼ日刊イトイ新聞内で執筆しているウェブコラム連載のひとつであり、
このページでは毎週、書くこと、表現すること、考えることなどの様々な題材をもとにズーニーさんと読者の人たちがさまざまな意見や考え方を深めている。
同時にここでは毎回、読者から感想や意見をメールで募集しており、
その時々のテーマについて寄せられた読者のメールを紹介しながら展開していくことも多い。
現在、おとなの小論文教室では「Lesson521 失恋論 4.失恋は可能性」というテーマで、
ここに私の書いた「なおやさん」によるおたよりが紹介されている。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「失恋論」というテーマが始まったのは12月1日、私は夜にこれを読んで初めてメールを送信していた。ズーニーさんの失恋論に思うところがあったので、いきおい、自分なりの意見を書いていた。
そのときは私は少し浮かれ気味だった。
中島みゆきツアー2010でみゆきさんご本人に、自分の書いたおたよりが読まれた日から日も浅く、
それなりに舞い上がっていた、と思う。
そして翌週の更新日の12月8日、もしかしたら自分のおたよりが紹介されているかを気にしつつ、
第2回の失恋論に目を通したが、私の書いたおたよりの紹介などなく、
色んな読者の方の意見を読んで、自分の寄せた内容は今回のテーマとはズレていたな、と思って、
いつも通りページを読んでいた。
そして今朝、自分が失恋論におたよりメールを出していたことなど、すっかり忘れていたので、
失恋論の第4回のタイミングで、自分のおたよりが紹介されたことにちょっと驚いていた。
みゆきさんに読まれた時のペンネーム、ほぼ実名「青木なおや」で投稿していたが、
ズーニーさんは苗字を伏せてくださっていた。ここでは特に伏せない。
投稿した内容は、頭の簡単な挨拶文を除く、ほぼ「全文」そのままを使ってくださり、
メール送信時にやらかした脱字も、きちんと埋めて掲載していただいていた。
また、ズーニーさんは私の投稿文章に<自分の理想を支える土台を持つ生き方>という、
見出しタイトルを付けてくださった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
これで、本当にもう過去の失敗に、捉われる必要はない、と私自身がきちんと認めてあげようと思う。
ここまで具体的に示してもらっているのだ。
私の過去3年間は失恋論に寄せた文章に凝縮できている。
だからこそ、ズーニーさんのこころに引っ掛かるものもあったのだろうと思う。
そのときの自分の枠組みの限界まで来たからこその失恋。
ぶちあたった自分の壁の感触と痛み。それを私はもう知っている。
ズーニーさんの「失恋論 4」では、「次」という言葉をたくさん見つけられる。
私にとっての「次」とは何なのか、今あるところの「次」は何なのか。
私が投稿した文で使った「理想」という言葉は一体何を示したものなのか。
去年、私の手相を見てくださった柳沢さんは、こう言ってくださっていた。
”あなたは失敗しても何かを掴み取って、立ち直れる人だから”と。
ものごとに「終わり」というのは、存在しない。
「区切り」こそあれど、本質的に終わりなどどこにもない。
終わりの無いことを絶望的と捉えるか、無限の可能性と捉えるか、選ぶ自由がある。
空に途切れている場所はどこにも無い。
すべてを包むようなひとつながりの世界が、そこにはある。
おめもじでした。
準備と後片付けができる人は、仕事もできる。 [わたしの意見]
仕事には「準備」と「後片付け」がつきもの。
ある仕事をなすために、そして次の仕事に取り掛かるために、仕事の中には準備と片付けが欠かせないのである。
もちろん「実務」を抜きにして話をするわけではないものの、「準備」ができるということは、実務において必要となる環境、道具、連絡などを把握しているわけで、仕事をスムーズに開始するために適切な判断を下せる人物といえる。
「後片付け」ができるということは、いつでも新しい仕事に取り掛かれる状態の環境にできるし、道具なら次に使う時まで正常に機能するように保管するものだし、対人実務ならば適切な報告、挨拶をもって仕事の一区切りをつけられる、ということになる。
このように仕事の流れ全体を把握しているからこそ、適切な準備と後片付けができる。
逆に適切な準備と後片付けをできるから、仕事の流れも把握できてくる、という構図が見えてくる。
さらに仕事ができる人はこれらをふまえた上で過去の経験をもとにその先の流れをある程度読むことができ、次なる仕事への「優先順位」についての判断も、より適切なものにしていくことができる。
逆に、どうも”冴えない”仕事をしている人…というのは「準備か後片付け」もしくは両方が、おぼつかない。あるいはまったく念頭にない、様子である。
ひどいといわゆる「指示待ち族」のような人物もちらほら。
準備も後片付けも誰かがやってくれる、と無意識に頭の隅で考えているのか、「実務」が終わったら後片付けをほっぽり出して、ろくな準備もせずに新しい「実務」にとりかかろうとする。
準備が万全でないので実務中に何回か「巻き戻し」が起こる。
片付けが済んでいないので実務中に片付けをせざるを得なくなり「一時停止」が起こる。
しばしば周りの人まで巻きぞえをくう場合も多いのが困ったものである。
職種にもよるものの、スムーズに仕事を遂行できない人を「できる」とは言えないだろう。ちなみに人を仕事ができるか否かで二分するつもりはまったくない。今回はあくまで準備と後片付けの大切さを考えたい。
このように準備と後片付けが視野にある人とそうでない人には雲泥の差が見える、とわたくし青二才のおめもじは思うのである。
仕事に積極的な人はひとつの終わった仕事の後始末をいいかげんにはやらないし、その上で次の仕事にとりかかろうとする。そして協力的な姿勢を持っている。
逆に冴えない人はひとつの仕事が終わった後、誰からの指示がない限りボーっとしていたりウロウロして時間をロスする。流れを読めないのか気にもしないのか、自分の行動を自分で決められない様子だ。
また、仕事というのは自分ひとりだけで完結するものはおそらく無いだろう。同じ仕事をする人達からなるグループもあれば、取引相手や個人のお客の存在が欠かせなかったりするだろう。
仕事が自分ひとりで完結するのなら、準備も後片付けもその人の判断でどうとでもすればいいが、自分以外の誰かが関わるのなら話は別である。
反対に今度は仕事の「利」を受ける立場で考えてみるとわかりやすい。
もし119番に通報して、準備ができていないからすぐには出動できない、などと言われたら、どうだろう。
もし飲食店に入って、前の客の食べ終わった皿がまったく片付けられていなかったら、どうだろう。
こういう視点だと特に仕事においてそれだけ準備と後片付けが大切なのだとわかる。
だからこそ、準備と後片付けをたいして気にしない人物がまともな仕事をできるか、というとやはり疑問になってくる。
何かの本で読んだか、「料理」が得意な人に仕事のできる人が多い、という記事を読んだことがある。
まさしく料理は準備と後片付けを含めた段取り力が問われる作業でもある。
必要な食材と適切な道具の用意、そして下ごしらえをすますといった「準備」。 残った食材を適切な保存状態にし、非可食部を廃棄する。最後に使った道具やキッチンをきれいにして再びいつでも使えるようにしておくといった「後片付け」。
飲食店にせよ家庭の食事にせよ、料理の完成のための一連の作業をスムーズに「回す」ためには準備と後片付けがおろそかにできない。
こうした理由から料理が得意な人が仕事もできる、という見方に一理ありと賛成できる。
私は準備と後片付けをしっかり覚えてこなせるようになる事が新しい仕事と環境になじむ最善最速の手法のひとつではないか、と思う。
おめもじでした。
ある仕事をなすために、そして次の仕事に取り掛かるために、仕事の中には準備と片付けが欠かせないのである。
もちろん「実務」を抜きにして話をするわけではないものの、「準備」ができるということは、実務において必要となる環境、道具、連絡などを把握しているわけで、仕事をスムーズに開始するために適切な判断を下せる人物といえる。
「後片付け」ができるということは、いつでも新しい仕事に取り掛かれる状態の環境にできるし、道具なら次に使う時まで正常に機能するように保管するものだし、対人実務ならば適切な報告、挨拶をもって仕事の一区切りをつけられる、ということになる。
このように仕事の流れ全体を把握しているからこそ、適切な準備と後片付けができる。
逆に適切な準備と後片付けをできるから、仕事の流れも把握できてくる、という構図が見えてくる。
さらに仕事ができる人はこれらをふまえた上で過去の経験をもとにその先の流れをある程度読むことができ、次なる仕事への「優先順位」についての判断も、より適切なものにしていくことができる。
逆に、どうも”冴えない”仕事をしている人…というのは「準備か後片付け」もしくは両方が、おぼつかない。あるいはまったく念頭にない、様子である。
ひどいといわゆる「指示待ち族」のような人物もちらほら。
準備も後片付けも誰かがやってくれる、と無意識に頭の隅で考えているのか、「実務」が終わったら後片付けをほっぽり出して、ろくな準備もせずに新しい「実務」にとりかかろうとする。
準備が万全でないので実務中に何回か「巻き戻し」が起こる。
片付けが済んでいないので実務中に片付けをせざるを得なくなり「一時停止」が起こる。
しばしば周りの人まで巻きぞえをくう場合も多いのが困ったものである。
職種にもよるものの、スムーズに仕事を遂行できない人を「できる」とは言えないだろう。ちなみに人を仕事ができるか否かで二分するつもりはまったくない。今回はあくまで準備と後片付けの大切さを考えたい。
このように準備と後片付けが視野にある人とそうでない人には雲泥の差が見える、とわたくし青二才のおめもじは思うのである。
仕事に積極的な人はひとつの終わった仕事の後始末をいいかげんにはやらないし、その上で次の仕事にとりかかろうとする。そして協力的な姿勢を持っている。
逆に冴えない人はひとつの仕事が終わった後、誰からの指示がない限りボーっとしていたりウロウロして時間をロスする。流れを読めないのか気にもしないのか、自分の行動を自分で決められない様子だ。
また、仕事というのは自分ひとりだけで完結するものはおそらく無いだろう。同じ仕事をする人達からなるグループもあれば、取引相手や個人のお客の存在が欠かせなかったりするだろう。
仕事が自分ひとりで完結するのなら、準備も後片付けもその人の判断でどうとでもすればいいが、自分以外の誰かが関わるのなら話は別である。
反対に今度は仕事の「利」を受ける立場で考えてみるとわかりやすい。
もし119番に通報して、準備ができていないからすぐには出動できない、などと言われたら、どうだろう。
もし飲食店に入って、前の客の食べ終わった皿がまったく片付けられていなかったら、どうだろう。
こういう視点だと特に仕事においてそれだけ準備と後片付けが大切なのだとわかる。
だからこそ、準備と後片付けをたいして気にしない人物がまともな仕事をできるか、というとやはり疑問になってくる。
何かの本で読んだか、「料理」が得意な人に仕事のできる人が多い、という記事を読んだことがある。
まさしく料理は準備と後片付けを含めた段取り力が問われる作業でもある。
必要な食材と適切な道具の用意、そして下ごしらえをすますといった「準備」。 残った食材を適切な保存状態にし、非可食部を廃棄する。最後に使った道具やキッチンをきれいにして再びいつでも使えるようにしておくといった「後片付け」。
飲食店にせよ家庭の食事にせよ、料理の完成のための一連の作業をスムーズに「回す」ためには準備と後片付けがおろそかにできない。
こうした理由から料理が得意な人が仕事もできる、という見方に一理ありと賛成できる。
私は準備と後片付けをしっかり覚えてこなせるようになる事が新しい仕事と環境になじむ最善最速の手法のひとつではないか、と思う。
おめもじでした。
タグ:考える
ポニョの中の未来像 [わたしの意見]
昨日、「崖の上のポニョ」が地上波で放送されていましたので、バッチリ録画しつつ観ました。
私は公開当時に映画館で観ており、
そのときあるシーンを観て思いもよらず涙したことを良く覚えています。
ポニョがフジモトのサンゴ塔から脱出して宗介に再会するまでのいわゆる「ポニョ来る」のシーン、
今見てもグッとくるものがあり、画面に釘付けでした。
宗介に再び会いに行くこと、そして宗介と同じ人間になりたいと願い、
ポニョ自身がこれをあっという間に成し遂げしまうダイナミックさ。
とにかく一瀉千里に事が運ぶ痛快なシーンです。
一切の迷いなく、楽しげに自分の目的に向かって文字通り怒涛のごとく突っ走るポニョに私は一種の憧れを覚えたのだと思います。
宗介の血をなめたことで今までなかった手足を持つことができ、
足で走ることそのものを楽しみ、新しいものすべてに目を輝かせ、人間の世界と通じ合っていくポニョ。
宗介と一緒に人間として生きるためならば、
魔法が使えなくなるというデメリットもポニョにとってはなんら問題ではないようです。
宗助というポニョにとって安心できる存在もいるためか、
終始ポニョ自身が不安を感じているような表現がほとんど見当たりません。
ここで映画パンフレットに掲載された宮崎監督の言葉に、
この作品をもって ”神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。”という一文があり、
これを読んだ時にポニョというキャラクターの性質が、
時代性の闇を照らすための灯台の役割を果たしているのではないかと感じました。
私は不安とワクワクする事とは本質的には同じものだという意見に賛成しています。
どちらも先の事、未来に対しての感情であり、肯定的にとるか否定的に捉えるかの違いだと思います。
リスクを感じるか、希望を感じるか。
常にポニョはまっすぐ自分の望むことに焦点をあてて行動するので、
目の前の問題やリスクをたやすく飛び越してしまいます。
ですがここはまだ子供、自分の行動が起こす影響についてはまったく度外視。
それがきっかけで世界の混乱を引き起こしもしますが、
ポニョは常に一瞬のうちに自分の望む方向へ舵を切るセンスにあふれた存在だと思いました。
このポニョのキャラクターをより際立たせているのが、
劇中もっとも不安を感じている演技が多いポニョの父親・フジモトというキャラクター。
彼は終始ポニョの起こしていく後始末のために奔走し、
本人はいたって真剣なのにそれがどこか滑稽に映るフジモトが個人的に大好きです。
この映画本編の前にスタジオジブリの新作「借りぐらしのアリエッティ」が発表され、
まったく知らなかった私は思わず歓声がもれました。
その時に主題歌であるセシル・コルベルさんの「Arrietty's Song」が演奏されたのですが
これを聞いている時ゾクゾクしました。
こんな初見でピンとくるものに出会うのはなかなかありません。
今から7月の公開が楽しみでなりません。私は間違いなく劇場に足を運ぶことでしょう。
おめもじでした。
私は公開当時に映画館で観ており、
そのときあるシーンを観て思いもよらず涙したことを良く覚えています。
ポニョがフジモトのサンゴ塔から脱出して宗介に再会するまでのいわゆる「ポニョ来る」のシーン、
今見てもグッとくるものがあり、画面に釘付けでした。
宗介に再び会いに行くこと、そして宗介と同じ人間になりたいと願い、
ポニョ自身がこれをあっという間に成し遂げしまうダイナミックさ。
とにかく一瀉千里に事が運ぶ痛快なシーンです。
一切の迷いなく、楽しげに自分の目的に向かって文字通り怒涛のごとく突っ走るポニョに私は一種の憧れを覚えたのだと思います。
宗介の血をなめたことで今までなかった手足を持つことができ、
足で走ることそのものを楽しみ、新しいものすべてに目を輝かせ、人間の世界と通じ合っていくポニョ。
宗介と一緒に人間として生きるためならば、
魔法が使えなくなるというデメリットもポニョにとってはなんら問題ではないようです。
宗助というポニョにとって安心できる存在もいるためか、
終始ポニョ自身が不安を感じているような表現がほとんど見当たりません。
ここで映画パンフレットに掲載された宮崎監督の言葉に、
この作品をもって ”神経症と不安の時代に立ち向かおうというものである。”という一文があり、
これを読んだ時にポニョというキャラクターの性質が、
時代性の闇を照らすための灯台の役割を果たしているのではないかと感じました。
私は不安とワクワクする事とは本質的には同じものだという意見に賛成しています。
どちらも先の事、未来に対しての感情であり、肯定的にとるか否定的に捉えるかの違いだと思います。
リスクを感じるか、希望を感じるか。
常にポニョはまっすぐ自分の望むことに焦点をあてて行動するので、
目の前の問題やリスクをたやすく飛び越してしまいます。
ですがここはまだ子供、自分の行動が起こす影響についてはまったく度外視。
それがきっかけで世界の混乱を引き起こしもしますが、
ポニョは常に一瞬のうちに自分の望む方向へ舵を切るセンスにあふれた存在だと思いました。
このポニョのキャラクターをより際立たせているのが、
劇中もっとも不安を感じている演技が多いポニョの父親・フジモトというキャラクター。
彼は終始ポニョの起こしていく後始末のために奔走し、
本人はいたって真剣なのにそれがどこか滑稽に映るフジモトが個人的に大好きです。
この映画本編の前にスタジオジブリの新作「借りぐらしのアリエッティ」が発表され、
まったく知らなかった私は思わず歓声がもれました。
その時に主題歌であるセシル・コルベルさんの「Arrietty's Song」が演奏されたのですが
これを聞いている時ゾクゾクしました。
こんな初見でピンとくるものに出会うのはなかなかありません。
今から7月の公開が楽しみでなりません。私は間違いなく劇場に足を運ぶことでしょう。
おめもじでした。
タグ:映画